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旅立ちの蕎麦

“旅立ちは、夏間近の青空が冴えた日だった。
午前の喧騒に揉まれる社内を抜け、外に出る。
前に会社のあった横川町ではそろそろ蝉の声が聞こえる時期だったが、ここ大和田町ではそういえばまだ聞いていない。

“歩を進めるにつれ、ふと気づいた。
不思議なもので、見慣れたはずの町並みもしばらく目にする事もないのだと思うとなんだか少し普段よりも美しく思えてくる。

“──どれほど歩いただろうか。
不意に空腹感を覚えたので手近なところで昼食を済ませるかと思っていると、折よく営業中の蕎麦屋を見つけた。
蕎麦。

“割と値の張るものなので普段ならばあまり選択肢には入らないが、今日は旅立ちの特別な日だ。
細く長くのゲンを担いで蕎麦をたぐるというのも悪くない。

“暖簾をくぐり、年配の女性店員に一人であるという旨を告げ、誰もいない座敷席に腰掛ける。

”時計を見ると11時を少し回った頃合だ。恐らくは店を開いたばかりだったのだろう。
冷房の効いた落ち着いた店内には静かなジャズが流れ、天井では音も無くシーリングファンが回っている。

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“洒落っ気のある店内の隅にあった色紙に力強い筆跡で書かれた「至誠通天」という文字に思わず頷いてしまった。
一息つき、水とおしぼりを持ってきてくれた女性に、カツ丼と小ざる蕎麦のセットを注文する。

“こんなに暑い日だ、ビールも美味いだろうなと注文しかけてすんでのところで言葉を飲み込んだ。
いけない。旅立ちにあたっての歩調が千鳥足などとんだお笑いぐさだ。

“窓の向こうの道路へと注ぐ鋭気を帯びた日差しを眺めながら、これからどうしたものかと考えてみる。
書置きを残して飛び出したは良いものの、特に行くあてはない。

“仕方がないからとりあえず歩けるところまで歩いてみるかと思案がまとまりかけたところで、入り口のベルが来客を告げた。
……自分の後にすぐ客が続く。期待が出来そうだ。

“喉に染み入るよく冷えた水をチビチビと飲みながら待っていると、三組目の来客の後にカツ丼セットが配膳された。
黄金色に輝く半熟卵が眩しい。

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“付けあわせが大根のサラダというのがまた嬉しいものだ。
胸の期待をいっそうに膨らませ、一礼をし割り箸を開く。

“──カツ丼というのは、贅沢な食べ物だと思う。
それだけで完成しているトンカツという食べ物を、わざわざ卵と出汁でとじる。

“一度カラリと揚げたそれを汁に浸すという矛盾を抱えているハズなのに、なかなかどうして。
この不思議な料理は我々を魅了して止まない。

“豚肉を揚げる。出汁で具材を軽く煮る。卵でとじる。
多種の行程を経て提供されるこの一品には、蕎麦屋の魅力と実力が詰まっている様な気がする。

“ここまで来れば、もう余計な考えは無粋。
意を決してカツと卵を同時にすくい、口へと運ぶ。

うはっ!めっちゃうまいクル!

“カツ丼を二口。とろとろの卵にとじられてなお主張を失わない衣。抵抗無く噛み切れる豚肉と甘辛さの絶妙な出汁が口の中で踊る踊る。

“次いでサラダ。シャキシャキとした大根が心地良い。
さっぱりした後に蕎麦をたぐる。長い。すごく長い。どうにかこうにかつゆに浸し、一気に啜り上げる。

“ズルズルと音が響き、近くの座敷に腰かけた老夫婦の視線が投げられたのを感じるが知った事ではない。
これだ。この馬鹿みたいに暑い夏の日に冷たいざる蕎麦を啜るこの感覚の為に生きているのだ。

最高クル!生きてるって素晴らしいクルル!

“カツ丼、サラダ、蕎麦、カツ丼、味噌汁、カツ丼、蕎麦……
本当に蕎麦が好きな人がみたら、きっと無粋だと笑われるような食べ方だっただろう。

“しかし微塵も後悔は無い。食べたい物を美味しく食べる。
この快感に比べれば通を気取る人間からの嘲笑など些事だ。

ふぃー、ごちそうさまクルー。

“夢中になって食事を終えてふと見渡すと、いつの間にか随分と席が埋まっていた。
先の女性店員も忙しそうに動き回っている。
……この味ならば、繁忙の具合も頷ける。

“女性の店員に隙が出来たのを見計らい勘定を済ませ、店の外へと歩を進めた。

さて……どっちに行くかクルル。

“正午も近くなり一層に強さを増した日差しが、陽炎を作りながらアスファルトに注いでいる。
どちらとも決めず、とりあえずで伸びた一歩を踏みしめた──



本日のお店、八王子市大和田町「喜そば家」様クル。ご馳走様でした!